2015年5月3日日曜日


Richard Wagner : Lohengrin
25th April 2015 at Deutschen Oper Berlin


ベルリン・ドイツ・オペラのホルテン演出のローエングリンは2012年4月15日にプレミエ、2012/2013に再演、そして、今回の2014/2015シーズンと続き、さらに、次の2015/2016のシーズンにも上演される。

2014/2015シーズンでは、12月の2回と4月の2回で配役が異なり、4月ではフォークト、ハルテロス、グロイスベック、ランドグレン、マイヤーがキャスティングされている。

2015/2016シーズンも日によって配役が二通りあるので、例えば、フォークトがお目当てなら、彼が出る日であることを確認して予約を取りましょう。


私は、再演の2013年3月16日に鑑賞したが、今回のキャスティングとはフォークト、グロイスベック(彼は他の日に出ていたが、当日は確か代役であった)が共通している。
演出が非常に興味深かったことに加えて、マイヤーのオルトルートが聞けることから、また、足を運ぶこととなった。


舞台が始まる前に、劇場の人がマイクを持って舞台に登場した際には、誰がキャンセルしたのかと焦ったが、歌手はだれも問題はなく、カーテンを上げ下げする装置の調子が悪く、一番外側のメインのカーテンが使えないとのことで、一安心。
実際には、第一幕の終わりだけは、代用品の殺風景なカーテン(板?)がすごく遅いスピードで降りてきましたが、第二幕以降は装置が直ったのか、立派な紅色のカーテンが降りてきましたし、所謂カーテンコールも行われました。


ホルテンの演出の根底に流れるものは、戦争の悲惨さへの批判だと思われる。

まず、幕が開くと舞台には、沢山の人間が横たわっており、次第に、戦いの終わった戦場に倒れた兵士の亡骸であることが判ってくる。オーケストラの弦楽器に木管が加わるあたりで、舞台奥から女性が一人、二人、三人、四人と舞台に進み出て、死んだ兵士たちのなかで、自分の家族を探していく。金管が輝かしく響く際に、自分の家族の亡骸を発見したのだろうか、女性の一人が苦悶の声を上げる。前奏曲の清らかで神聖な響きとは明らかに異質な舞台が展開され、その強烈な対比には目が釘付けになる。同時に、この物語のバックグラウンドにある、隣国との戦争を嫌でも認識させられる。

前奏曲が終わると一旦幕が下り、おそらくは、倒れていた兵士がそのまま立ち上がって、ドイツ国王を歓迎するブラバントの人々を演じるというスマートな舞台処理。

一般的な演出では、生真面目な人間として描かれる伝令は頭に包帯をしており(その包帯に少し血糊が付いているのが不気味)、ブラバントの人々に国王への歓迎の意を表わすように裏で促したり、それを受けたブラバントの人々は、片手でポケットのあたりを叩くという、気乗りのしなさそうな態度だったりと、アイロニカルな演出が続く。

さて、エルザが右手から舞台中央に現れるというか、手枷足枷、目隠しまでされて、引き立てられて来る。このような格好のエルザを見たブラバントの人々が、「なんと清らかに見えることか」と歌うのも、相当なアイロニーを感じざるを得ない。

オルトルートは、エルザに付き添って中央に一緒に進み、さも気を使っているように見えるが、エルザが目隠しを外してほしいというようなポーズを見せると、さっと離れて右手の端に行ってしまう。
結局、目隠しはローエングリンが登場して少したってから外されるのだが、目隠しを外してもらったエルザが初めて実物のローエングリンを間近に見て、ハッとする表情を見せるという流れに繋げるあたりは芸が細かい。

テルラムントが国王を前にエルザを糾弾する間、オルトルートはテルラムントの少し後ろで、彼をバックアップしているような仕草を見せているのは、糸を引いてるのは彼女だということだろう。

伝令の呼び掛けに応えてエルザのために戦おうと名乗り出るものは誰もいないのだが、皆、応えないだけはなく、すこし子供っぽいポーズで両手で目を手で塞ぐというすこしコミカルな演技が付けられていた。

あわやその場でエルザが処刑される寸前に、舞台奥から白い煙が上がり、その煙の中で手に持っていた天使のコスプレみたいな白い羽根を背負ってから、ローエングリンが舞台に登場。

禁問の誓いの場面では、ローエングリンとエルザが中央で歌うのだが、ただ一人、二人のやり取りを右手で聴いているオルトルート以外は、全員後ろを向かせることで、嫌が応にも二人のやり取りに観客の神経を集中させるだけでなく、この三人を軸に物語が進んでいくことも表現するという意味でも効果的な演出だと思う。

ローエングリンとテルラムントの戦いは、舞台奥から上がってくる白い煙の中にローエングリンが一旦消えて、相手を見失ったテルラムントが煙の奥から再び現われたローエングリンにあっさり敗北するという演出で、やや拍子抜けの感もあるが、剣を実際に交えるような演出でも迫真の決闘シーンは実際上難しいので、これもまたスマートな処理と言えるであろう。

敗北したテルラムントは、右手で見ていたオルトルートの方に頼るように駆け寄るのだが、さっとオルトルートが身をよけて、テルラムントは転けて倒れるという少しコミカルな味付けがされていた。
テルラムントがつけていた首飾り(ブラバントの支配権の象徴か)は、ローエングリンのものとなり、ローエングリンを中央にブラバントの人々が彼を取り囲むという決めのポーズで第一幕は終了。

なお、メインのカーテンの調子が悪く、代用品のような殺風景なカーテン(板?)が下りてきたのだが、下りてくるスピードが遅く、出演者たちは下りきるまで待ちきれずに、途中で流れ解散?となった。従って、所謂、カーテンコールは無し。


第二幕は、巨大な十字架の形をした装置が宙吊りになっており、この巨大な十字架の装置は、エルザが出てくるテラスになるのだが、キリスト教支配の暗喩かもしれない。

その巨大な十字架の下の地面で、テルラムントとオルトルートがやり取りをしているのだが、やがて、オルトルートがテルラムントを右手端にうつぶせに横たわるように指示する。

すると左手から十字架の上を歩いてエルザが出てくる。オルトルートは、罪を償おうと反省しているテルラムントを許してくれるようにエルザにお願いする際に、横たわって意気消沈しているように見えるテルラムントをエルザに見せる。

さて、エルザがオルトルートのいる地面に降りてくる間に、オルトルートが、キリスト教以前の神々を讃えて歌うが、「ヴォータン!」という声に、起き上がったテルラムントが目を剥いて驚くような表情をしたのは、古代の神々に帰依しているオルトルートの本性を初めて知ったということなのだろう。


第三幕では、婚礼の合唱が終わると、ローエングリンとエルザの二人だけになるが、部屋の真ん中にあるベッドが不釣り合いに小さいのは、二人が結局は円満に結びつくことはないということを意味しているのだろうか。その後、このベッドは、覆われていたシーツを取られて、白い石碑となり、一番最後で別の用途で使われることになる。

ローエングリンは天使のコスプレじゃなかった白鳥の羽を外して、舞台右手に置き、エルザとのやり取りを始める。やがて、禁問がエルザの口から発せられ、テルラムントが乱入してくる。が、テルラムントは、舞台右手に置いてある白鳥の羽に気を取られて?というか、白鳥の羽に斬りつけようとして、舞台左手にいたローエングリンに後ろから、あっさり斬られてしまう。

ここで舞台転換となるのだが、ご存知の通り、意気揚々とブラバントの人々が集まってくる非常に勇壮な音楽が流れてくる。
が、この演出では、独り舞台に残されたエルザが苦悶の声を上げ、舞台転換している間、舞台後ろを隠すために降りてきた幕には、夥しい墓石の並ぶ夜の墓地に、独り佇む女性の後ろ姿が描かれている。エルザと同じように髪を後ろに束ねているところを見ると、将来のエルザの姿だろうか。そう、戦争が始まるのだ。

最後に、ローエングリンが若きブラバント公を連れてくる、というか、運んでくるのだが、少年のミイラ化した屍体としか見えないブラバント公を、二人が結ばれなかったベッドであった石碑の上に置いたローエングリンは、なんとガッツポーズを取るのだ。

確かに、これから戦争に突入するであろうラストシーンをアイロニカル表現する意図は理解できる。脚本にも、テルラムントの仲間が「あの男(ローエングリン)は、我々を脅してもいない敵と戦うために我々を出征させるのか」という台詞が出てくる。が、あまりに厳しく救いの無い演出だと思わずにはいられなかった。

観客の反応は素晴らしく、前回の2013年の再演時よりも熱狂の度合いが高いように思った。

2013年にこの演出を最初に見た際には、ラスト・シーンのあまりの救いの無さに唖然呆然、大げさに言えば目にしたものが信じられないくらいで、そのラスト・シーンを確認するために今回、再度足を運んだとさえ言えなくもない。

二回見ることで、輝かしい英雄物語の根底に流れる隣国との戦争という悲惨な現実を浮き彫りにするという演出家の意図はよく理解できたし、その意図が思いつきではなく、このオペラの脚本を読み込んだ結果であり、それゆえの説得力を持っていることもよく解った。
某国の国立劇場の同じ演目のように、何の問題意識も無いような演出では無い点、さすが、ホルテンと思わずにはいられなかった。

実は、確認したい点の一つであった、ブラバントの人々に、童話に出てくるような中世風の衣装を着た人と、現代風の兵士の服装をした人がいるのは何故かという疑問は、今回も解けないままで終わった。
ベルリン・ドイツ・オペラでは、定番のワーグナーのオペラを同じ演出でかなり長く続けていくので、この謎解きは、次回のお楽しみとしておこう。


Casting 2015/04/25
Musikalische Leitung Donald Runnicles
Inszenierung Kasper Holten
Bühne, Kostüme Steffen Aarfing
Licht Jesper Kongshaug
Chöre William Spaulding
Heinrich der Vogler Günther Groissböck
Lohengrin Klaus Florian Vogt
Elsa von Brabant Anja Harteros
Friedrich von Telramund John Lundgren
Ortrud Waltraud Meier
Der Heerrufer des Königs Bastiaan Everink
1. Brabantischer Edler Paul Kaufmann
2. Brabantischer Edler Álvaro Zambrano
3. Brabantischer Edler Noel Bouley
4. Brabantischer Edler Thomas Lehman
Chöre Chor der Deutschen Oper Berlin
Orchester Orchester der Deutschen Oper Berlin

2012年7月29日日曜日

Götterdämmerung 2012/07/15 at Bayerische Staatsoper


7月13日 神々の黄昏 バイエルン国立歌劇場

第一幕:ギービヒ家はファッション産業のコングロマリット?

ケント・ナガノが普通に現れて、拍手、幕が開く。

舞台の中央には、木の板が何本も塀のように上下に立っており、その左右と上を取り囲むようにに複数のビデオ画面が置かれ、最近のニュース映像を流している。
津波のビデオがあったが、流されている車の形からして日本車と判る。東北大震災の津波のニュース映像だろう。

舞台の真ん中、ビデオ画面に囲まれたスペースの木の板の前にトランクを抱えた困窮した人達が現れた。亡命者?被災者?
神々の黄昏の冒頭のあの悲しい和音に合わせて、彼らが口を大きく叫ぶかのように開ける。和音が彼らの叫びに聴こえる演出だ。
彼らを機械を使ってチェックしていく係官のような人達が、彼らが希望を託していた(と見える)紙片を捨てさせて回って行く。

彼らの後ろの木の板をよく見ると、その背後にいる人間の手が見える。
亡命すらできない人?この木の塀の内側にさえ入れてもらえない被災者?
と思ったが、大間違い。人間が舞台装置である板を手で持って動かし、舞台展開する仕組みという訳で、深い意味は全くありませんでした。

さて、 ジークフリートとブリュンヒルが登場。ジークフリートの体にはルーネ文字が。ブリュンヒルデは筆を持っている。ジークフリートが寝ている間に書いたという設定だろう。

ジークフリートのラインの旅の場面では、ラインの川の流れを、人間舞台装置が、この場合は、青い上着を後ろから前に跳ね上げ、下を向いて一塊になることで表現していた。船の下に何人も集まって、下向き垂れた上着をゆらゆらさせると、川の流れに見えるんですね。

ジークフリートのラインの旅の最後は、違う世界に突入するような効果の映像で締めくくられた。その映像は、その中心から光が広がって行くことで、見ている人間が速いスピードで飛んで行くような感覚を与えるものであるが、そのビデオでしつこい位に使われていたのが、Gewinnの文字だ。「利益」「利益」「利益」、、、、ジークフリートは資本主義の世界に突入したのだろう。途中では、洒落たファッションストアのウインドウの画像も使われていた。

ギービヒ家の屋敷は、2階以上は、透明な壁のオフィスビルで、中には従業員らしきビジネスマンがパソコンの前に座って仕事したり、書類を持って歩いていたりする。彼らは、活き活きしたところが無く、時には、ロボットのように見える。

1階は、ギービヒ家の居間のようだは、グンターは一見、上品で知的な紳士に見える。体型もスマートで、その着こなしは、ファッション雑誌からスーツのモデルが抜け出したように見える。
しかし、その実は、若く美しいお手伝いさんを弄んでいるような、金持ちの放蕩息子だ。
彼女達を、自分の座るソファの前で四つん這いにさせてみたり、ホームバーでは後ろから押し倒してみたり、床に足を広げて座らせたそのスカートの奥を、パターゴルフの的にしたりとやりたい放題。

グートルーネも甘やかされて育ったわがまま放題の嬢さんという設定。例えば、LUST「欲望」と窓に大きな落書きをする。それを、お手伝いさん達が消していくのだ。

こんな中にジークフリートが登場するのだが、グートルーネは彼に薬酒を飲ませた後で、舞台の左手の甲冑の置物をどかしスーツが何着も掛かったキャスター付きのハンガーを舞台に引っ張ってきて、ジークフリートにサイズが合う三つ揃いのスーツを選んで、彼に着せてしまう。

ギービヒ家は、ファッション産業のコングロマリット?と書いたが、ジークフリートの旅の映像にファッションストアのウインドウが使われており、グンターは隆とした服装で、ギービヒ家ではいろいろなサイズのスーツが出てくるといったあたりからの想像である。

グートルーネは、ユーロ通貨のマーク「€」の形の乗り物?に載って登場、ここらへんも資本主義への冷めた見方の表現だろうか?

 第3場のヴァルトラウテは、しきりに足を掻いているのはなぜだろうか?
ヴァルトラウテは時にユーモラスな(剽軽な?)表情をみせる
これに対して、ブリュンヒルデは金髪と彫りの深い顔立ち、白いロングドレスと、ハリウッド女優を思わせるイメージでかっこ良く決まっていました。

第二幕:金色の€マークのテーブルは如何?


 グンターと比べるとまじめなサラリーマンに見えていたハーゲンであるが、実は、義兄グンターと同じように、若いお手伝いさんとお楽しみ?のよう。第2幕の冒頭では、ソファーで一緒に寝ていた彼女たちに、お金を払って出ていかせる。
アルベリヒが現れるが、今回の配役では、どう見てもハーゲンの方が親父さんに見えてしまう。アルベリヒは、去り際にホームバーのお酒や葉巻をポケットに突っ込んで舞台右手に消えるあたりは、今回の演出に見られるユーモラスな味付け。

ブリュンヒルデが連れてこられるときには、衣装は花嫁姿ではあるが、目の部分だけ穴をあけたスーパーマーケットの紙袋を頭に被せられており、非常に残酷なイメージで、ギョッとさせられた。
ギービヒ家の家臣達は携帯電話を持って登場、ハーゲンが話をしているときも携帯電話を操作しているし(メモってるのか?)、ブリュンヒルデが顔を見せれば、携帯電話で写真を撮りだす。

結婚式用に、あらたに大きなテーブルが持ち込まれるが、そのテーブルの形はユーロ通貨マーク「€」である。
グートルーネは、ユーロ通貨の形をした乗り物でご満悦
周りを取り囲むのはギービヒ家の家臣(社員?)


第三幕:大トリはグートルーネ


第一場の狩りの場面は、ギービヒ家の舞台セットをそのまま使っていた。
式場に持ち込まれた大きなテーブルもそのま残っており、資本主義のシンボル?のユーロ通貨マーク「€」の上で、ジークフリートはグンターに刺し殺される。

すると、グートルーネは、亡きジークフリートに自分のウエディングドレスの引き裾?を掛けて彼の死を悼み、倒れたグンターを後ろから抱きかかえて、大泣きに泣く
これまでの好き放題の勝手気ままのお嬢様のイメージは無い。人の死を悼み、亡骸に布を掛ける神経の細やかな人間がそこにいる。

ブリュンヒルデは舞台奥に姿を消し、ものすごい炎が奥から上がる。ギービヒ家の家臣達は逃げ惑うが、グートルーネの大泣きは止まらない。
やがて、舞台は彼女だけになる。すると、炎に包まれている舞台奥から、白い衣装の一団が現れて、彼女を守るかのように取り囲む。彼らは、今まさに燃え尽きて滅びていく旧世界から来たとは見えない。未来からの使者では?

このグートルーネを最後まで舞台に残し、「救われるもの」として描いた演出家の意図ですが私はこのように解釈しました。
甘やかされて育ち、自己中心的な、自分の欲望を充足することしか考えていなかったお嬢さんが、ジークフリートとグンターの死を経験し、近親者の死という痛みを乗り越えることで、人生の重みを理解できる人間に成長し、新しい世界で生き延びるというメッセージであると。

演出家は、グートルーネを、高度な資本主義の下で、表面的な欲望の充足が人生の目的になりがちな現代人の象徴として描き、神々の黄昏を、現代人への警鐘として描きたかったのでは?

もしそうであるなら、ワーグナーが、その当時に、資本主義経済や金融資本に抱いていた危惧と繋がる考え方かも知れません。


燃え上がる炎の前で歌うブリュンヒルデ



終演後:ケント・ナガノと鉢合わせ(?)


今夜の公演は、歌劇場前の広場でのライブ・ビューイングと全世界へのネット配信がされました。劇場内には、後ろ中央に3台、前方の左右に1台ずつ、ハイビジョンカメラが入っていました。(ちなみに、全てキャノン製でした)

終演後、正面の出入口に向かうと、大きな歓声が上がりました。何事か?と思って小走りに進むとケント・ナガノさんが外から歌劇場に入ってくるところではないですか。
彼が歌劇場前のライブ・ビューイングの観客に挨拶して、歌劇場に帰ってきたところだったんですね。
歌劇場を出ようとする私とちょうどすれ違うような格好になりました。すれ違い様に、握手が出来ればと思い手を伸ばしたんですが、急ぎ足の彼とタイミングが合わず、残念!と思った瞬間、私に気がついた彼が、少し後ずさりして、戻ってきて握手をしてくれました。気遣いありがとう!



Wagner, Götterdämmerung. Bayerische Staatsoper Ring-Zyklus B
Musikalische Leitung : Kent Nagano
Inszenierung : Andreas Kriegenburg
Bühne : Harald B. Thor
Kostüme : Andrea Schraad
Licht : Stefan Bolliger
Choreographie : Zenta Haerter
Dramaturgie : Marion Tiedtke
Olaf : A. Schmitt.
Chor : Sören Eckhoff

Siegfried : Stephen Gould
Gunther : Iain Paterson
Hagen : Eric Halfvarson
Alberich : Wolfgang Koch
Brünnhilde : Nina Stemme
Gutrune : Anna Gabler
Waltraute : Michaela Schuster
Woglinde : Eri Nakamura
Wellgunde : Angela Brower
Floßhilde : Okka von der Damerau
2. Norn : Jamie Barton
1. Norn : Jill Grove
3. Norn : Irmgard Vilsmaier

2012年7月28日土曜日

Siegfreid 2012/07/13 at Bayerische Staatsoper

7月13日 ジークフリート バイエルン国立歌劇場

第一幕:黒衣ならぬ白衣?大活躍

第一幕が終ると盛大な拍手とともに、ブーイングが一部の観客から出た。
演出に向けられたブーイングであろうことは、カーテンコールでは、ジークフリートとミーメといった歌手達にはブーイングが無かったことからも想像に難くない。

人間が「舞台装置」として活躍し、「雰囲気」を表現し、登場人物の手助けをするという演出のコンセプトが、ジークフリート第一幕では、相当、賑やかに実施された。

まずは、
舞台中央に、揺れる炎を表すべく、一群の人間が集まって(押し競饅頭?をして)いる。
各人がばらばらに動く様、そして、彼らを照らす炎のイメージの照明が、揺れる炎を表現する。
時に一人二人が、集団から外側に転がっていくのは、炎から出て行く火花を意味するのでしょう。

黒衣に似たところもありますが、自分の存在を隠さないし、衣装も白色が多いので、白衣と呼んでおきましょう。

衣が、木の幹を持って舞台に出てきたと思ったら、幹を立てて寝そべって森の出来上がり。衣が、緑の布から両手にヒマワリの花を持った手を上げれば花畑の出来上がり。
ジークフリートが、川に写った自分の顔のことを歌う際には、サランラップのようなビニールをジークフリートの前に伸ばして、川の出来上がり。
という具合。


ミーメの部屋も壁を持った人間が行き来して、あっという間に出来上がったり、また、消えたりします。ミーメの部屋が消えると、舞台の後ろが自由に使える訳で、さすらい人とミーメの謎掛けの場面で、巨人族の話になれば、巨人族が人間プレスの立法形に載って、舞台後ろを一瞬、横切ったりします。

ジークリンデが、ジークフリートを産み落とす場面や、それを見て、ミーメがあたふたしている場面が、舞台後ろで演じられます。
この場面を演じるのは、歌手以外の人たちでした。つまり、手前の歌手のミーメとは別に、後方で瀕死のジークリンでの出産を目撃するミーメがいます。歌手のジークフリートが、舞台後ろのジークリンデに手を伸ばし、一瞬、母と子の手が触れたかに見えるシーンもありました。

ジークフリートがノートゥングを鍛える場面は、衣達がでかい吹子?を担いで行進しながら登場し、全員総出でサポートというのは、人によっては、やり過ぎ感があるかもしれません。
私自身は、鬱々としてミーメと同居していたジークフリートが、今の環境から抜け出せるのという明るい気持ちになって行く場面なので、その賑やかさを単純に楽しみました。

衣の活躍は、他にも盛りだくさん。ハンマーに合わせて、火花に見える紙吹雪?を振り掛けるという舞台効果という立場だけでなく、ノートゥングを鍛え終わったジークフリートに剣の柄を差し出すようにコラボレーションもします。


ノートゥングを鍛えるジークフリートと
〔火花ならぬ〕紙吹雪を補給する〔黒衣ならぬ〕白衣の女性

さすらい人(ヴォータン)は、ワルキューレに引き続き、力強く好印象でした。
熊は、以外にも?
無理に四つん這いしないぬいぐるみであっさりしたもの。



第二幕:人間ドラゴン(の顔)は迫力満点

ドラゴンは、目と牙だけが、一般的と言うか、普通の舞台装置で使うような、ドラゴンのもの。
他の部分は何で出来ているかというと、そう、人間で出来ている。

ドラゴンの顔を形作る何人もの人間は、蠢きながら動いており、赤い照明で照らされている。
この胴体が無く顔だけのドラゴンが上下左右に動くのは、実に気味の悪い光景であった。


人間ドラゴン(の顔)と戦うジークフリート
(お断り:ポスター左下の車は映り込みです)


ドラゴンが退治された後、ファフナーは赤装束で登場。
ファフナーの赤いコートをジークフリートが着ると、小鳥の声が聴こえるようになる。

小鳥役の歌手はバレリーナと思うくらいに、
両手に扇子を持って、よく動いていました。
彼女以外に、鳥のおもちゃを釣り竿みたいなもので持っている女性とペアで行動しており、二人合わせて小鳥なのかもしれません。


第三幕:小鳥もサポート継続

人間が舞台装置になるというコンセプトから、エルダの登場も、エルダを隠していた人間の山が崩れるように広がって出現するという演出でした。この人間の山が自在に動いて、エルダを出現させたり、隠してしまったりというあたりは、決して、派手でも豪華でもないにも拘わらず、非常に効果的でインパクトがありました。
この演出の基本コンセプトの基礎になる発想、人間はどんな精密な機械よりも精緻な動きができ、アーティスティックな舞台効果が可能という発想が成功していたと言えるのではないでしょうか。

最後は、舞台一面を覆うかのような赤い布が波打つように揺れるなか、ジークフリートが、小鳥(歌手の方)に靴を脱ぐのを手助けされながら、ブリュンヒルデと目出たくゴールイン。
そうです、小鳥はジークフリートがブリュンヒルデを見つけた後も、しっかり、ジークフリートをサポートします。

ラストの二重唱の演出は、ジークフリートの子供っぽさが強調されたしたもので、ユーモラスというか、やや、軽きに流れたような印象も感じました。

ジークフリートは、2010年のバイロイトでも同じ役を聴いたことがあるランス・ライアン。その時は、事前知識が全くなく、スリムな体躯と力強い歌唱に接して、衝撃にも似た印象を持った記憶があります。

今回は少し単調かもと思ったりしたのは、バイロイトで受けた衝撃に慣れてしまったから?それとも、今回の二重唱の演出がやや軽めだったため?
とは言え、全幕を通して細かい演技もこなしながら、最後まで全く危なげのない、高い水準の歌唱であったことは間違いないでしょう

終演後:ノートゥング?展示中

二階のホワイエに、立派な台座に乗った剣を発見!ノートゥングだ!でもよく見ると、スペルがちょっと違うような?

この「Notung」ならぬ「Nothing」は、熱を持っているのが売り?らしく、係の人の説明を受けた人は、皆さん手をかざしていました。



何と!Notungが!
と思ったらNothing?
あれ?NotungでなくNothingでもなく、Nothung?
ロメオ・カステルッチさんは、演出家かつ美術家の方です。
Wagner, Siegfried. Bayerische Staatsoper Ring-Zyklus B
Musikalische Leitung : Kent Nagano
Inszenierung : Andreas Kriegenburg
Bühne : Harald B. Thor
Kostüme : Andrea Schraad
Licht : Stefan Bolliger
Choreographie : Zenta Haerter
Dramaturgie : Marion Tiedtke
Olaf : A. Schmitt

Siegfried : Lance Ryan
Mime : Wolfgang Ablinger-Sperrhacke
Der Wanderer : Thomas J. Mayer
Alberich : Wolfgang Koch
Fafner : Rafal Siwek
Erda : Jill Grove
Brünnhilde : Catherine Naglestad
Stimme eines Waldvogels : Elena Tsallagova