2012年7月29日日曜日

Götterdämmerung 2012/07/15 at Bayerische Staatsoper


7月13日 神々の黄昏 バイエルン国立歌劇場

第一幕:ギービヒ家はファッション産業のコングロマリット?

ケント・ナガノが普通に現れて、拍手、幕が開く。

舞台の中央には、木の板が何本も塀のように上下に立っており、その左右と上を取り囲むようにに複数のビデオ画面が置かれ、最近のニュース映像を流している。
津波のビデオがあったが、流されている車の形からして日本車と判る。東北大震災の津波のニュース映像だろう。

舞台の真ん中、ビデオ画面に囲まれたスペースの木の板の前にトランクを抱えた困窮した人達が現れた。亡命者?被災者?
神々の黄昏の冒頭のあの悲しい和音に合わせて、彼らが口を大きく叫ぶかのように開ける。和音が彼らの叫びに聴こえる演出だ。
彼らを機械を使ってチェックしていく係官のような人達が、彼らが希望を託していた(と見える)紙片を捨てさせて回って行く。

彼らの後ろの木の板をよく見ると、その背後にいる人間の手が見える。
亡命すらできない人?この木の塀の内側にさえ入れてもらえない被災者?
と思ったが、大間違い。人間が舞台装置である板を手で持って動かし、舞台展開する仕組みという訳で、深い意味は全くありませんでした。

さて、 ジークフリートとブリュンヒルが登場。ジークフリートの体にはルーネ文字が。ブリュンヒルデは筆を持っている。ジークフリートが寝ている間に書いたという設定だろう。

ジークフリートのラインの旅の場面では、ラインの川の流れを、人間舞台装置が、この場合は、青い上着を後ろから前に跳ね上げ、下を向いて一塊になることで表現していた。船の下に何人も集まって、下向き垂れた上着をゆらゆらさせると、川の流れに見えるんですね。

ジークフリートのラインの旅の最後は、違う世界に突入するような効果の映像で締めくくられた。その映像は、その中心から光が広がって行くことで、見ている人間が速いスピードで飛んで行くような感覚を与えるものであるが、そのビデオでしつこい位に使われていたのが、Gewinnの文字だ。「利益」「利益」「利益」、、、、ジークフリートは資本主義の世界に突入したのだろう。途中では、洒落たファッションストアのウインドウの画像も使われていた。

ギービヒ家の屋敷は、2階以上は、透明な壁のオフィスビルで、中には従業員らしきビジネスマンがパソコンの前に座って仕事したり、書類を持って歩いていたりする。彼らは、活き活きしたところが無く、時には、ロボットのように見える。

1階は、ギービヒ家の居間のようだは、グンターは一見、上品で知的な紳士に見える。体型もスマートで、その着こなしは、ファッション雑誌からスーツのモデルが抜け出したように見える。
しかし、その実は、若く美しいお手伝いさんを弄んでいるような、金持ちの放蕩息子だ。
彼女達を、自分の座るソファの前で四つん這いにさせてみたり、ホームバーでは後ろから押し倒してみたり、床に足を広げて座らせたそのスカートの奥を、パターゴルフの的にしたりとやりたい放題。

グートルーネも甘やかされて育ったわがまま放題の嬢さんという設定。例えば、LUST「欲望」と窓に大きな落書きをする。それを、お手伝いさん達が消していくのだ。

こんな中にジークフリートが登場するのだが、グートルーネは彼に薬酒を飲ませた後で、舞台の左手の甲冑の置物をどかしスーツが何着も掛かったキャスター付きのハンガーを舞台に引っ張ってきて、ジークフリートにサイズが合う三つ揃いのスーツを選んで、彼に着せてしまう。

ギービヒ家は、ファッション産業のコングロマリット?と書いたが、ジークフリートの旅の映像にファッションストアのウインドウが使われており、グンターは隆とした服装で、ギービヒ家ではいろいろなサイズのスーツが出てくるといったあたりからの想像である。

グートルーネは、ユーロ通貨のマーク「€」の形の乗り物?に載って登場、ここらへんも資本主義への冷めた見方の表現だろうか?

 第3場のヴァルトラウテは、しきりに足を掻いているのはなぜだろうか?
ヴァルトラウテは時にユーモラスな(剽軽な?)表情をみせる
これに対して、ブリュンヒルデは金髪と彫りの深い顔立ち、白いロングドレスと、ハリウッド女優を思わせるイメージでかっこ良く決まっていました。

第二幕:金色の€マークのテーブルは如何?


 グンターと比べるとまじめなサラリーマンに見えていたハーゲンであるが、実は、義兄グンターと同じように、若いお手伝いさんとお楽しみ?のよう。第2幕の冒頭では、ソファーで一緒に寝ていた彼女たちに、お金を払って出ていかせる。
アルベリヒが現れるが、今回の配役では、どう見てもハーゲンの方が親父さんに見えてしまう。アルベリヒは、去り際にホームバーのお酒や葉巻をポケットに突っ込んで舞台右手に消えるあたりは、今回の演出に見られるユーモラスな味付け。

ブリュンヒルデが連れてこられるときには、衣装は花嫁姿ではあるが、目の部分だけ穴をあけたスーパーマーケットの紙袋を頭に被せられており、非常に残酷なイメージで、ギョッとさせられた。
ギービヒ家の家臣達は携帯電話を持って登場、ハーゲンが話をしているときも携帯電話を操作しているし(メモってるのか?)、ブリュンヒルデが顔を見せれば、携帯電話で写真を撮りだす。

結婚式用に、あらたに大きなテーブルが持ち込まれるが、そのテーブルの形はユーロ通貨マーク「€」である。
グートルーネは、ユーロ通貨の形をした乗り物でご満悦
周りを取り囲むのはギービヒ家の家臣(社員?)


第三幕:大トリはグートルーネ


第一場の狩りの場面は、ギービヒ家の舞台セットをそのまま使っていた。
式場に持ち込まれた大きなテーブルもそのま残っており、資本主義のシンボル?のユーロ通貨マーク「€」の上で、ジークフリートはグンターに刺し殺される。

すると、グートルーネは、亡きジークフリートに自分のウエディングドレスの引き裾?を掛けて彼の死を悼み、倒れたグンターを後ろから抱きかかえて、大泣きに泣く
これまでの好き放題の勝手気ままのお嬢様のイメージは無い。人の死を悼み、亡骸に布を掛ける神経の細やかな人間がそこにいる。

ブリュンヒルデは舞台奥に姿を消し、ものすごい炎が奥から上がる。ギービヒ家の家臣達は逃げ惑うが、グートルーネの大泣きは止まらない。
やがて、舞台は彼女だけになる。すると、炎に包まれている舞台奥から、白い衣装の一団が現れて、彼女を守るかのように取り囲む。彼らは、今まさに燃え尽きて滅びていく旧世界から来たとは見えない。未来からの使者では?

このグートルーネを最後まで舞台に残し、「救われるもの」として描いた演出家の意図ですが私はこのように解釈しました。
甘やかされて育ち、自己中心的な、自分の欲望を充足することしか考えていなかったお嬢さんが、ジークフリートとグンターの死を経験し、近親者の死という痛みを乗り越えることで、人生の重みを理解できる人間に成長し、新しい世界で生き延びるというメッセージであると。

演出家は、グートルーネを、高度な資本主義の下で、表面的な欲望の充足が人生の目的になりがちな現代人の象徴として描き、神々の黄昏を、現代人への警鐘として描きたかったのでは?

もしそうであるなら、ワーグナーが、その当時に、資本主義経済や金融資本に抱いていた危惧と繋がる考え方かも知れません。


燃え上がる炎の前で歌うブリュンヒルデ



終演後:ケント・ナガノと鉢合わせ(?)


今夜の公演は、歌劇場前の広場でのライブ・ビューイングと全世界へのネット配信がされました。劇場内には、後ろ中央に3台、前方の左右に1台ずつ、ハイビジョンカメラが入っていました。(ちなみに、全てキャノン製でした)

終演後、正面の出入口に向かうと、大きな歓声が上がりました。何事か?と思って小走りに進むとケント・ナガノさんが外から歌劇場に入ってくるところではないですか。
彼が歌劇場前のライブ・ビューイングの観客に挨拶して、歌劇場に帰ってきたところだったんですね。
歌劇場を出ようとする私とちょうどすれ違うような格好になりました。すれ違い様に、握手が出来ればと思い手を伸ばしたんですが、急ぎ足の彼とタイミングが合わず、残念!と思った瞬間、私に気がついた彼が、少し後ずさりして、戻ってきて握手をしてくれました。気遣いありがとう!



Wagner, Götterdämmerung. Bayerische Staatsoper Ring-Zyklus B
Musikalische Leitung : Kent Nagano
Inszenierung : Andreas Kriegenburg
Bühne : Harald B. Thor
Kostüme : Andrea Schraad
Licht : Stefan Bolliger
Choreographie : Zenta Haerter
Dramaturgie : Marion Tiedtke
Olaf : A. Schmitt.
Chor : Sören Eckhoff

Siegfried : Stephen Gould
Gunther : Iain Paterson
Hagen : Eric Halfvarson
Alberich : Wolfgang Koch
Brünnhilde : Nina Stemme
Gutrune : Anna Gabler
Waltraute : Michaela Schuster
Woglinde : Eri Nakamura
Wellgunde : Angela Brower
Floßhilde : Okka von der Damerau
2. Norn : Jamie Barton
1. Norn : Jill Grove
3. Norn : Irmgard Vilsmaier

2012年7月28日土曜日

Siegfreid 2012/07/13 at Bayerische Staatsoper

7月13日 ジークフリート バイエルン国立歌劇場

第一幕:黒衣ならぬ白衣?大活躍

第一幕が終ると盛大な拍手とともに、ブーイングが一部の観客から出た。
演出に向けられたブーイングであろうことは、カーテンコールでは、ジークフリートとミーメといった歌手達にはブーイングが無かったことからも想像に難くない。

人間が「舞台装置」として活躍し、「雰囲気」を表現し、登場人物の手助けをするという演出のコンセプトが、ジークフリート第一幕では、相当、賑やかに実施された。

まずは、
舞台中央に、揺れる炎を表すべく、一群の人間が集まって(押し競饅頭?をして)いる。
各人がばらばらに動く様、そして、彼らを照らす炎のイメージの照明が、揺れる炎を表現する。
時に一人二人が、集団から外側に転がっていくのは、炎から出て行く火花を意味するのでしょう。

黒衣に似たところもありますが、自分の存在を隠さないし、衣装も白色が多いので、白衣と呼んでおきましょう。

衣が、木の幹を持って舞台に出てきたと思ったら、幹を立てて寝そべって森の出来上がり。衣が、緑の布から両手にヒマワリの花を持った手を上げれば花畑の出来上がり。
ジークフリートが、川に写った自分の顔のことを歌う際には、サランラップのようなビニールをジークフリートの前に伸ばして、川の出来上がり。
という具合。


ミーメの部屋も壁を持った人間が行き来して、あっという間に出来上がったり、また、消えたりします。ミーメの部屋が消えると、舞台の後ろが自由に使える訳で、さすらい人とミーメの謎掛けの場面で、巨人族の話になれば、巨人族が人間プレスの立法形に載って、舞台後ろを一瞬、横切ったりします。

ジークリンデが、ジークフリートを産み落とす場面や、それを見て、ミーメがあたふたしている場面が、舞台後ろで演じられます。
この場面を演じるのは、歌手以外の人たちでした。つまり、手前の歌手のミーメとは別に、後方で瀕死のジークリンでの出産を目撃するミーメがいます。歌手のジークフリートが、舞台後ろのジークリンデに手を伸ばし、一瞬、母と子の手が触れたかに見えるシーンもありました。

ジークフリートがノートゥングを鍛える場面は、衣達がでかい吹子?を担いで行進しながら登場し、全員総出でサポートというのは、人によっては、やり過ぎ感があるかもしれません。
私自身は、鬱々としてミーメと同居していたジークフリートが、今の環境から抜け出せるのという明るい気持ちになって行く場面なので、その賑やかさを単純に楽しみました。

衣の活躍は、他にも盛りだくさん。ハンマーに合わせて、火花に見える紙吹雪?を振り掛けるという舞台効果という立場だけでなく、ノートゥングを鍛え終わったジークフリートに剣の柄を差し出すようにコラボレーションもします。


ノートゥングを鍛えるジークフリートと
〔火花ならぬ〕紙吹雪を補給する〔黒衣ならぬ〕白衣の女性

さすらい人(ヴォータン)は、ワルキューレに引き続き、力強く好印象でした。
熊は、以外にも?
無理に四つん這いしないぬいぐるみであっさりしたもの。



第二幕:人間ドラゴン(の顔)は迫力満点

ドラゴンは、目と牙だけが、一般的と言うか、普通の舞台装置で使うような、ドラゴンのもの。
他の部分は何で出来ているかというと、そう、人間で出来ている。

ドラゴンの顔を形作る何人もの人間は、蠢きながら動いており、赤い照明で照らされている。
この胴体が無く顔だけのドラゴンが上下左右に動くのは、実に気味の悪い光景であった。


人間ドラゴン(の顔)と戦うジークフリート
(お断り:ポスター左下の車は映り込みです)


ドラゴンが退治された後、ファフナーは赤装束で登場。
ファフナーの赤いコートをジークフリートが着ると、小鳥の声が聴こえるようになる。

小鳥役の歌手はバレリーナと思うくらいに、
両手に扇子を持って、よく動いていました。
彼女以外に、鳥のおもちゃを釣り竿みたいなもので持っている女性とペアで行動しており、二人合わせて小鳥なのかもしれません。


第三幕:小鳥もサポート継続

人間が舞台装置になるというコンセプトから、エルダの登場も、エルダを隠していた人間の山が崩れるように広がって出現するという演出でした。この人間の山が自在に動いて、エルダを出現させたり、隠してしまったりというあたりは、決して、派手でも豪華でもないにも拘わらず、非常に効果的でインパクトがありました。
この演出の基本コンセプトの基礎になる発想、人間はどんな精密な機械よりも精緻な動きができ、アーティスティックな舞台効果が可能という発想が成功していたと言えるのではないでしょうか。

最後は、舞台一面を覆うかのような赤い布が波打つように揺れるなか、ジークフリートが、小鳥(歌手の方)に靴を脱ぐのを手助けされながら、ブリュンヒルデと目出たくゴールイン。
そうです、小鳥はジークフリートがブリュンヒルデを見つけた後も、しっかり、ジークフリートをサポートします。

ラストの二重唱の演出は、ジークフリートの子供っぽさが強調されたしたもので、ユーモラスというか、やや、軽きに流れたような印象も感じました。

ジークフリートは、2010年のバイロイトでも同じ役を聴いたことがあるランス・ライアン。その時は、事前知識が全くなく、スリムな体躯と力強い歌唱に接して、衝撃にも似た印象を持った記憶があります。

今回は少し単調かもと思ったりしたのは、バイロイトで受けた衝撃に慣れてしまったから?それとも、今回の二重唱の演出がやや軽めだったため?
とは言え、全幕を通して細かい演技もこなしながら、最後まで全く危なげのない、高い水準の歌唱であったことは間違いないでしょう

終演後:ノートゥング?展示中

二階のホワイエに、立派な台座に乗った剣を発見!ノートゥングだ!でもよく見ると、スペルがちょっと違うような?

この「Notung」ならぬ「Nothing」は、熱を持っているのが売り?らしく、係の人の説明を受けた人は、皆さん手をかざしていました。



何と!Notungが!
と思ったらNothing?
あれ?NotungでなくNothingでもなく、Nothung?
ロメオ・カステルッチさんは、演出家かつ美術家の方です。
Wagner, Siegfried. Bayerische Staatsoper Ring-Zyklus B
Musikalische Leitung : Kent Nagano
Inszenierung : Andreas Kriegenburg
Bühne : Harald B. Thor
Kostüme : Andrea Schraad
Licht : Stefan Bolliger
Choreographie : Zenta Haerter
Dramaturgie : Marion Tiedtke
Olaf : A. Schmitt

Siegfried : Lance Ryan
Mime : Wolfgang Ablinger-Sperrhacke
Der Wanderer : Thomas J. Mayer
Alberich : Wolfgang Koch
Fafner : Rafal Siwek
Erda : Jill Grove
Brünnhilde : Catherine Naglestad
Stimme eines Waldvogels : Elena Tsallagova

2012年7月22日日曜日

Die Walküre 2012/07/11 at Bayerische Staatsoper

7月11日 ワルキューレ バイエルン国立歌劇場

第一幕:フォークトのジークムント

ホールに入ると、昨日のラインの黄金とは異なり幕が降りており、指揮者のケント・ナガノが登場して拍手を受けて、幕が上がるという、通常のオペラのスタート。

ジークムントが何人かの敵と大立ち回り。これが、いつまで経っても終わらないので、どんな風に追跡を振り切って、フンディングの家にたどり着くのかと心配?していたら、舞台後方の半分が転換して、フンディングの家が現れた。

フンディングの家には、ジークリンデ以外に若い女性が何人もいる。
ラインの黄金では、登場人物ではない人間が「舞台装置」になり、時には、「雰囲気」を表現していたが、ワルキューレでは、さらに、登場人物の手助けをするようになる。
例えば、彼女たちは、ジークムントとジークリンデが酒の杯をやり取りする際には、舞台の左右に離れて立っている2人の間にいる何人かの女性が、手渡しリレーで杯を行き来させる。あるいは、フンディング帰宅後の食卓の準備は、彼女たちが、ジークリンンデと一緒にやったりする。

フンディングの家の真ん中には、大きな木があり、左右の奥の方には、左右両方とも、男性がベッドに横になっており、女性たちが汚れを落としているような作業を延々としている。
最初は怪我の手当かと思ったが、きれいに汚れを落としたあとに白い布でくるんでしまうので、死体処理なんだろう。
舞台の真ん中の木には、幾つか人形のようなものが掛かっているのだが、よくよく見ると、包帯に包まれた骸骨のようだ。フンディングの敵?の成れの果てなんだろうか。
おそらく、舞台奥で処理された死体が木に吊るされるのでは、、

今回、ミュンヘンにニーベルングの指環を見に行こうと決めた理由の一つが、ジークムントの配役にクラウス・フロリアン・フォークトの名前を見たことである。パルジファル、ローエングリンは、既に、CDやDVD、Blu-rayで全曲録音が出ているが、まだ、ワルキューレ全曲は無かったと思う。彼のジークムント、特に、「冬の嵐は去り」を生で聴きたい!と思い、チケット購入のボタンをクリックしてしまったのだ。
生で聴いた彼の「冬の嵐は去り」は、予想通り、丁寧な歌唱ぶりで、少し味付けが甘めに感じられなくもないが、聴きものであった。絶妙といっても良いだろう。

謎の女性たちは、手のひらが光る仕掛けになっており(電灯をもっているだけかもしれませんが、客席の私にはそう見えました)、ジークムントに気付かせるかのようにノートゥングを照らして見せたり、「冬の嵐は去り」の際には、ジークムントとジークリンデを囲むように並び2人を照らすという演出がされていました。
ノートゥングは木に刺さっていて、ジークムントがしっかり引き抜くという、素直な演出であったのは良かった。

歌手の歌唱は安定しており、また、ジークムントとジークリンデは、どちらかと言うと丸顔なところが、兄と妹という設定に違和感が無く、耳も目も満足できた。
昨日と同じく、登場人物の衣装も、デザインがすっきりしており、例えば、ジークムントはそのままトレッキングでも行けそうに見える点も良かった。

幕が終わっての拍手が音がほとんど消えてから始まったのは、昨日のラインの黄金と同じであったが、ワルキューレの第一幕のように、盛り上がって終わる場合でさえ拍手のフライングが無いことにも好感を持った。
フォークトのジークムント、カンペのジークリンデ
(このコンビ、兄妹の設定に違和感無し)


第二幕:ヴォータン復活?

ヴォータンは歴史と格式を備えた大会社の会長のようだ。立派な重役室で、部下(服装からすると執事というイメージ)が持ち込む書類をつぎつぎサインして決裁していく。
ラインの黄金のラストで見せたような弱々しい印象は無く、組織を効率的に動かす大物のイメージ。

今回も、舞台装置は人間というコンセプトから、前屈みに立った人間が、サインする書類を置くデスクになるし、ヴォータンが座ろうとすると、そこには、何人かの人間がソファーになって待ち構えているという具合だ。

フリッカが登場し、両手をあげて(久しぶりに会えて嬉しいとも言いたげに)ヴォータンに近づく。同じく両手をあげてヴォータンも彼女に近づくので、夫婦が仲良くハグするかと思いきや、そんな訳は無く、フリッカは最後にさっと身をかわして(一種のギャグ)、ト書き通りの口論が始まる。

ジークムントとジークリンデが逃げてきた荒野には、死体がごろごろころがって、その死体を漁る女性がいたので、一瞬、ワルキューレ達?と思ったが、単なる死体荒らしというのが正解でした。

第三幕:場内騒然の中、ワルキューレの騎行が始まる

幕開けに波乱があった。
幕が上がると、ワルキューレ達の前に女性ダンサーが立っており、彼女達がダンスを始めた。床を踏み鳴らし、髪を振り回し、気合いの叫びも入る野性的なダンス。
ワルキューレのイメージを具体化したとも思えるもので、なかなかの迫力であったが、これが、なかなか終わらない。一定のパターンがあって、それが何度も繰り返されていく。
かなり続いてから、観客席の一部から拍手が上がった。これは、純粋に満足という意思表示というよりは、もう結構、本来の音楽を始めて欲しいという気持ちも含まれていたと思う。

この拍手に対してブーイングが始まる、すると、それに対抗するようにブラボーが始まり、拍手、ブーイング、ブラボーで場内が騒然となるなかで、ケント・ナガノがワルキューレの騎行を始めさせた。
冒頭の部分は、聞き取れないくらいであったが、すぐに、観客席の騒ぎも治まって、本来のオペラがスタートした。

観客席の私は、一体、どうなることかと気を揉んだり、ワルキューレの騎行の音楽が、なんとも騒然とした雰囲気に合っていると感じたりと、なかなか得難い?体験ができた。
実は、歌劇場が公開しているビデオでは、ダンスはあっさり終わり、スムーズにワルキューレの騎行に移行するのである。実演では、観客の反応を計算して、執拗にダンスを繰り返し、場内が騒然としてから、ワルキューレの騎行を始めたと思われますが、実際のところはどうなんでしょうか。

舞台にはポールが突き立てられていて、そのポールに死体が串刺しされている。ポールには、手綱?が付けられており、その手綱をワルキューレ達が手にして、床に叩き付けながら歌う。
空を翔る馬に乗り、手綱を打ち付けながら突進するイメージを出すための演出だろう。ワルキューレ達が何となくうろうろ歩き廻っているようにしか見えない演出よりは、迫力とスピード感を感じさせるもので、悪くないと思った。なお、ポールに死体が突き刺さっているのは、後で、片付けやすいという意図もあったであろう(後述)。

女性ダンサーはその後も舞台後ろで待機しており、舞台に突き立てられたポールを引き抜いて、串刺しされている死体ごと退場してしまう。
その後には、ヴォータンとブリュンヒルデだけが残り、舞台装置が殆ど無い、究極?のミニマリズムな演出で、二人のやり取りが続くという流れになる。この流れも、私には納得がいくものであった。
左:ワルキューレ(ポールに死体が刺さっています)
右:ジークフリート(人間ドラゴン)

最後の場面で、ダンサー達が、炎を持って出てくるのは、今回の演出のコンセプト、登場人物以外の人間が舞台の進行を助ける、どおりである。

終演後:サイン会

歌劇場には、マリエン広場にあるLudwig Beckというデパートのミュージック・ショップが入っているのだが、終演後、フォークトが、そこでソフトを購入した観客のためのサイン会を行った。

彼のCDはあらかた持っていたが、日本では目にしたことが無い、”Die Meistersinger”というドキュメントもののDVDが店頭にあったので購入し、そのカバーに彼のサインを貰うことができた。
http://www.sonymusic.de/Klaus-Florian-Vogt/Der-Meistersinger/P/2619600/B/88691926539

歌劇場のスタッフ、ミュージック・ショップの店員さん、そして、フォークトさん自身、長い列をなしたファンの為に遅くまでご苦労様でした。

デパートのミュージック・ショップ というと、規模が小さく、特にクラシックについては、貧弱な品揃えを想像してしまいますが、Ludwig Beckはそれが当てはまりません。
後日、Ludwig Beckの5階にあるクラッシックの売り場を覗いて見ましたが、なかなか広々としており、特に、オペラのCDの品揃えは、相当に充実していました。
また、CDプレーヤが数台置いてあり、ソファに座って、自由に手に取って試聴できるCDが相当数用意されている(手に取れるので、ブックレットを見ながら、じっくり鑑賞が出来ます)など、設備も充実しています。
音楽ソフトに興味のあるクラシック愛好家の方には、ミュンヘンに行く機会があれば、是非、立ち寄ることをお勧めすします。

私は、買いそびれているうちに、入手困難となっていた、5枚組のAlain Planèsのドビュッシーのピアノ曲全集(harmonia mundi HMX 2908209)がセール価格(34ユーロ)で出ていたので思わず購入してしまった。自由に手に取って試聴できるCDの中に含まれていたので、CDの紙ケースが5枚すべて異なった洒落たデザインであることが判り、購買意欲が高まったこと購入に至った理由でもありました。
http://www.hmv.co.jp/artist_ドビュッシー(1862-1918)_000000000034577/item_ピアノ作品全集%E3%80%80プラネス(5CD)_3663138



Wagner, Die Walküre. Bayerische Staatsoper Ring Zyklus B

Musikalische Leitung : Kent Nagano
Inszenierung : Andreas Kriegenburg
Bühne : Harald B. Thor
Kostüme : Andrea Schraad
Licht : Stefan Bolliger
Choreographie : Zenta Haerter

Siegmund : Klaus Florian Vogt
Hunding : Ain Anger
Wotan : Thomas J. Mayer
Sieglinde : Anja Kampe
Brünnhilde : Iréne Theorin
Fricka : Sophie Koch


2012年7月21日土曜日

Das Rheingold 2012/07/10 at Bayerische Staatsoper

7月10日 ラインの黄金 バイエルン国立歌劇場

舞台には何人もの人たちが、、

開演時間が近づき、ホールの扉が開いたので、ホワイエから中をのぞくと、舞台上には何十人もの白い服を着た男女がいる。
さて、舞台上の人たちであるが、座ったり、話したり、あるいは、軽食が配られ、それを手に取って食べていたりする。まるで、合唱団の舞台稽古の休憩時間のようだ。一体、彼らは何者なんだろう?
よく見ると、後方には、白い衣装の人たちとのコントラストが目立つ、黒い衣装のアルベリヒと青いドレスのラインの乙女もいる。

すると、全員が白い衣装を脱いでアンダーウエアになり、缶に入った青い塗料を身体に付け始める。ラインの黄金には合唱はないのだから、彼らは歌手ではないことは言うまでもない。彼らは、「舞台装置」、つまり、「ライン川の流れ」であることに気がつく。
舞台前方に置かれた数個の椅子に、男女のカップルが座り、男性が女性を波を表すように揺らし始める。残りのメンバーは床に寝そべり、波を表現するように体を動かす。ラインの乙女が舞台後方から、「人間の波」の中を前に進んで、歌い始める。

人間は、頭脳と手足をもち、繊細な表現を自由に動きながら行える。また、集団でも一人一人でも、場面に応じて、自在に編成を変えることが可能である。そのような人間を舞台装置として使って行こうというのが今回の舞台演出のコンセプトである。
アルベリヒがラインの乙女を追いかけ、岩に滑るあたりは、みんなが音楽に合わせて腕立て伏せ?をして表現するところは、ちょっとユーモラスである。舞台装置を生身の人間が勤めるというコンセプトなので、ラインの黄金も予想どおり?人間が勤める。つまり、体が黄金色に塗られた人が演じている(と言うか、ただ単にだらんとしているだけだが)。


舞台装置の枠を超えて、「雰囲気」を作ることもある。例えば、フライアの登場するときなら、花を持った人が何人かが、フライアを取り囲むようにして一緒に出てくるのだ。

巨人族の演出として、何かの上に載って体が大きいことを示す演出が多い。今回の、巨人族も人の背丈程ある立方体に載って出てきた。が、その立方体が、何人かの人間を圧縮プレスして作ったように見えるオブジェであった。私は、舞台装置を人間で作るコンセプトであるが、現実的には人が載るものを作るのは難しいので、逆に、人間で作ったかのようなオブジェにしたと受け取った(一種のユーモア)。
彼らは、舞台の進行を進める役割も果たす。例えば、アルベリヒの変身シーンでは、目眩ましのためのランプを手にもって、舞台の観客の目から、アルベリヒが消えるための手助けをする。大蛇オブジェの柄を持って、舞台を歩くのも人間で、「黒子」とは異なり、堂々と姿を現して行う。

彼らが舞台後方に、後ろ姿で一列に左右に並び、何人かおきに高い台に載ることで、ヴァルハラ城を現す。

弱めのヴォータン

今回の演出で目立ったのは、ヴォータンが、神々の長としての強さを持ったヴォータンではないこと。
ヴォータンは登場の時も、疲れたように出てきて、靴だけ脱いで、舞台で寝込んでしまう。すると、フリッカがその靴を両手に取って、パンと打ち鳴らして起こすというところから冴えない。
指輪を巨人に渡さないと言う場面で、ドンナー以下の神々に舞台右端に詰め寄られるあたりから、もうよれよれで、自分で判断する力がなくなったかのよう。エルダの預言を聞いた後に、「フライア、こちらに来なさい」と言うのも、ドンナーに言わされた感がある。

逆に、ハンマーは振り回している割には、存在感のないような扱いをされがちのドンナーが、結構、しっかり者として描かれていた。

フライアは、ファフナーに殺されたファーゾルトに駆け寄ろうとし、ファーゾルトが殺された後は放心状態。フローやドンナーが相当しっかり慰めて、ようやく、他の神々と一緒にヴァルハルに向かう。新しい居城に向かう神々の一族には、危機を脱した安心感というよりは、深刻な亀裂が入ってしまった一族という印象を受けた。


主役はローゲ

神々の一族が、後方のヴァルハラに向けて後ろ姿で去って行く時に、舞台正面の真ん中に、どっかり座って高らかに笑っているのが、ローゲである。

今回のラインの黄金の主役は、ローゲだろう。演出家の意図もあってのことだろうが、歌手の技量も素晴らしいものがある。カーテンコールでのブラボーも一番多かった。

赤いスーツに白髪の長い髪をなびかせて、ステッキをつきながら歩き回るその姿は、裏で筋書きを練る策略家そのもの。
例えば、黄金をめぐるファフナーとファーゾルトの争いの際には、ト書きにあるとおり「指輪を選べ!」とけしかけるだけでなく、ファフナーの目の前にナイフをちらつかせて、ファフナーがそのナイフを取ってファーゾルトを刺し殺すという流れになっていた。

このポスターがまさに、ファフナーにローゲがナイフを渡すところ。

衣装のセンス良し

衣装は全員モダンなもの。変なオーバーデザインなところがなく、シンプルで、色使いも、ローゲの赤いスーツのように、役柄上、色が変わっている例外を除けば、奇を衒ったところがなく、そのまま街を歩いても違和感が感じないようなもので、非常に好感が持てた。


終演後

オペラハウスから出る際に、二階への階段が目に留まり、上を見上げると、豪華な二階の天井やシャンデリアが目に留まった。今日は、1階と地下しか見ていないことに気が付く。次回以降、他の階も見ておこう。

終演後、ローゲに一言感激したと伝えようと楽屋口で待っていたが、結局会えなかった。ずっと前から待っていたと思える白髪の男性に、今日のローゲは出てきたかと聞いた時には、まだと答えてくれたが、その後、もうこの時間まで経っても来ないのは、他の出口から帰ったのだろうと言われて断念。その人に、今日のローゲは素晴らしかったと言うと、彼は有名な歌手ではないが、良かったと同意してくれた。
その方は今日のヴォータンも良かった。ただこのプロダクションは、ヴォータンが変わってしまうので、もう彼は出てこないけれどと言っていた。その方は、ミュンヘンにお住まいだそうです。

楽屋口で待っている間にファフナー役のフィリップ・エンスに会えた。以前、ロイヤルオペラのジークフリート(2005/10/22)の後であなたと会っているんですと伝えると喜んでくれた。
おっとりしたナイスガイで、背も私と同じ位で、一見、バス歌手には見えない。普段着のカジュアルな服装では、アメリカン・フォーク・ロックのギタリストというイメージだ。このサイクルをすべてみるのか?と聴かれて、yesと答えると、彼は、僕は他の演目はよく知らないんだと言っていた。
そう、彼は、ジークフリートのファフナーは歌わないのだ。ファフナーだけでなく、ヴォータン、ジークフリートなどの役を、サイクル上演にも拘らず、必ずしも同じ歌手にしていないのが、今回のプロダクションの特色でもある。アルベリヒのように共通している歌手もあるのだが。


Wagner, Das Rheingold. Bayerische Staatsoper Ring Zyklus B

Musikalische Leitung : Kent Nagano
Inszenierung : Andreas Kriegenburg
Bühne : Harald B. Thor
Kostüme : Andrea Schraad
Licht : Stefan Bolliger
Choreographie : Zenta Haerter

Wotan : Johan Reuter
Donner : Levente Molnár
Froh : Thomas Blondelle
Loge : Stefan Margita
Alberich : Wolfgang Koch
Mime : Ulrich Reß
Fasolt : Thorsten Grümbel
Fafner : Phillip Ens
Fricka : Sophie Koch
Freia : Aga Mikolaj
Erda : Catherine Wyn-Rogers
Woglinde : Eri Nakamura
Wellgunde : Angela Brower
Floßhilde : Okka von der Damerau